昭和五十七年五月三十一日 朝の御理解
御理解第九十ニ節
「神は一体ぢゃによって此方の広前へ参ったからと云うて別に異ふ所はない、彼所ではおかげを受けたけれど此所ではおかげが受けられぬと云うのは守々の力に従って神のヒレイが異ふのぞ、神の守をして居れば諸事に身を慎み朝寝をしてはならぬ、早く起きると遅く起きるとは氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ」
昨日は、伊万里の竹内先生が東京出張の帰りに、秘書の方も同道で御参拝になりましたが、今度は東京から少し足のばして、勧進帳で有名な安宅の関を見物されたと、あちらのお土産物を色々買って来て下さった中に、あちらには七代目団十郎の弁慶、あっ、幸四郎の弁慶でしたか、兎に角あの銅像が立っておるそうですね。
その写真やら、今云う勘進帳やら色々な土産を売ってるそうですから、お土産に頂きましたが、皆さんも御承知のように勘進帳と云うのは、通れない所を通った、それも只ひたすら忠義の心一心で富樫がそれに感じて、通せん所を通してくれた。と云うのがお芝居の筋でございますが、私共の信心もやっぱりね。
昨日の御理解を云うと、合楽の信心が十全の信心だと説かれますが、成程、説かれるところ十全なのですけれども、その十全の信心を果たしてどれだけ自分が実行したか、どれだけ行の上に表したかと云う事になると、神様の目から御覧になりゃ、目の荒い事であろう、と思うのです。
けれども、これが本当だと分かったら本気でその構えを作って、十全の教えを、信心を身に付けようと云う決心、そしてそこに構えを作って、日々出来る出来んは別として、私はその一心を立てればね、通れない所も通らして下さるおかげが受けられる、と思うです。 合楽に現れてるそのおかげと云うのは、成程、十全の教えを説かれるお教会だけあって、教会自身が足ろうたおかげ、十全のおかげ、と云うのはこういうおかげであろうか、と云う程のおかげを頂いておりますけれども、中心である私には完璧に出来たと思われませんけれども、これが本当だと分かったら、その本当の事にすぐ切り替える、向きを替える、構えを作って、その事に出来る出来んは別として精進をする、そこに、いかにも出来たかのようにしておかげを頂いておるのが、今日の合楽の状態だと思うんです。
此処の所は、これはお教会、守々の力、と云うふうにおっしゃっておられますから、天地金乃神様金光大神のお取次を頂くと云う事は、どこの教会であっても同じなんだけれども、守々の力に従ってそのおかげが違う、と云うておられると云う所をですね、皆さんが拝んでも、やはり天地金乃神であり金光大神のお取次である神様は変わらない。
氏子一人一人の力に従ってそのおかげが異ふのぞ、と云う事になるのぢゃないでしょうかね。
此処に百万円の方がおられるとするならば、その百万円の方の一人一人のおかげの状態、現れ方と云うのは、同じお参りをし、同じお教をを頂いて、信心の稽古をなさっておられるのだけれど、そのおかげが違う、と云うのは結局めいめいの力に従って違うのぞ、と云う事になるのぢゃないでしょうかね。
これは、まあ皆さんが感じて下さらなければならない事は、成程合楽の信心こそ十全の教えである、信心である、と云う事をまず信じなければいけません。そして合楽に傾倒しなければいけません。 弁慶主徒が義経に傾倒したようなもんです。命を懸けての傾倒でありますね、そこから十全の信心がどういう所からどういうふうになされて来るか、と。
合楽では、どんなにてんやわんやと云ったような時であっても、そこに一つも衝突も互い違いになる事もなしに、スムーズにおかげが頂けておる、本当に万事お繰り合わせの中におかげ受けておるな、と云うのはね、自然を重んずる心が、いよいよこういう薫ようなおかげにもなって来たんだ、とお知らせを頂きましたね。
お互いの上にも、薫ようなおかげを頂かしてもらいたい訳ですから、いよいよ成行を重んずる心を、もう此処に極まった、と一つ心を決めてね、その事を徹底して行じて行く。その徹底の仕方がね、神様の目から御覧になると不徹底な所もございましょうけれども、不習いな所もございましょうけれども、その気でその一心を立て、その構えを作るとね、出来てもいないのに出来たかのようにおかげを下さる。
竹内先生と御一緒に同道された、秘書の方でしょうか助役さんでしょうか田中さんて云う方、時々一緒にお参りになって色々とお願いがございますが、昨日もやっぱりお届けがございましたから、お取次をさせて頂いておりました。
そしたら神様から、商標なんかに昔使いました、へ、て云うのがありましょ。へ、の下に十の字をスーと長く頂いたんです。
これは、傘ですね。へ、を書いて中に、十、を書いたら傘になるでしょ。あらーっ、とその方に私は申しました。
世の中にはおかしな事ばっかりあって、丁度、私は出がけにテレビで見ましたけど、何かあの方は有名なお爺さんだそうですが、競艇の宣伝をしておられますですね。
親に孝行しましょう。お年寄りを大切にしましょう。と云ったような事を云ってるテレビがありましょうが。そしたら神様からですね、親を大切にしましょう。年寄りを大切にしましょう。ギャンブルはいたしますまい。と云ったような意味の事を頂いたんです。
おかしな事でしょう、そういう素晴らしい事を云うとるか、と思うと、片方にゃ競艇なんかのギャンブルの宣伝ですからね。
世の中と云うものは、実にへんてこな、おかしな事ばっかりあってるですね、て云うて、その方に話した事でございましたがね。
私共の日常生活の上には、不自然な様々な問題もありましょうけれどもね、その事の一切を修行として受ける、と云う受け方が本当に出来たらね、本当の人間の幸福は此処から頂けるんですがね、と云うて話した事ですね。
一切の事を修行、どんな事でもそれを修行として受ける。段々その信心の内容、修行の内容が分かって来ると、本当は御礼を申し上げねばならない事に対して不平不足を云うておる。御礼を申し上げねばならない事に腹を立てたり、悲しんだりしておる。
肉眼をおいて神眼を開かせて頂く、段々おかげを蒙りますと本当の事が分かって来る。だから本当に全ての事に御礼が云えれる、きつい時にはそれを修行と受ける。と云う生き方になったらね、人生にプラスする傘と云うのは、傘一本で開けるとおっしゃるように、心にいつも安心があり、安らぎがあるね。自分の生活の上に、日常生活の上にそういう一切を修行として受けようとね。
私は昔色んな修行もしましたけれども、今云う完璧なおかげでも、十全のおかげでも修行でもなかった。又、事実おかげも受けられなかった。 初めて成行の全てを修行として受けよう、と云う一心発起したようにですね、皆さんはこの一切を山で受けよう、修行で受けよう、いよいよそういう構えを作る、と云う事ね、それは人生に傘のプラスがあるね。
心が安らぎ、安心、喜びの生き方が出来る生き方が此処にあるんだ、と分かったらね、一生を安心の中に喜びの中に過ごす事が出来るだろう。そういう生活が出来るようになる人達が沢山増えたら、世の中は有難い事になるでしょうけれどもね、と云うてお話しした事ですけれどもね。
今日の御理解を頂いてですね、これは教会と云う事ぢゃなくてね、皆さんの一人一人の所で頂く、守々の力に従って御礼が違う、ならば今度は信者の皆さん一人一人の力に従っておかげが違うのぞ、と云う事にもなるのです。
拝んでおるのは天地金乃神様です。教祖金光大神様です。
けれどもおかげが違うね、そのおかげを薫ようなおかげにしていく事の為に、一切全てを修行と受ける、腹を作る事ですね。
私は、これから自分の上に起きて来る一切を、修行として受けよう、と腹を決めた。さあ決めたらそれが難しい事ではなかった。まあ、厳密に云うたら目の荒い事でもあったでしょうけれども、四年半と云う間、様々な事を受け抜かして頂いた時に、初めて神様の本心を私に吐露して下さった。そして実際はそう何もかにも頂く、と云う事ぢゃないぞ、と。
法連草に例えて云うならば、赤いひげのとこやら泥やらは取って、美味しく、栄養になる所だけを頂くように、これからはせよ。と云うふうに頂いたようにですね。
結局、腹を作ると云う事、そこにね、守々の力、又は各自各自のおかげを頂く受け物、と云うものが決まって来ると思うんです。
勘進帳の富樫と弁慶の間に交わされる山伏問答と云いますね。本当の事ぢゃないのだけれどもね、弁慶の止むに止まれん忠臣に免じて、通してくれたように、私共の在り方とても、そりゃ、神様の眼から御覧になれば、目の荒い事ではありましょう、本当に目の荒い事に改めて気が付きますよ。
昨日は日曜でしたから特別奉仕員の御祈念があった。正教先生が正奉仕で御祈念をさして頂くと、御心眼に何か衣桁にかける所を頂いたと云う。
実はね、私は云うまいと思いよった。正奉仕が、必ず私の控えの所に迎えに来てくれる訳ですね、襖を開けてくれます。それは必ず四時一分前なんですね。ですから此処の祝詞に座った時が四時なんです。昨日はそれに二、三分早かったんです。ま、どうしたこっちゃろか、とこう思うね。タイミングが悪いですね。
修行生一同此処でお届けを致します。そん時には必ず此処の修行生はみんな御初穂がある、御初穂を奉ってお届けをするんです。ところが御初穂なしだったので前の晩から用意ばしとらぢゃった、と私がこう思ったんです。
明日は自分の正奉仕だから、ちゃんと時計とも見比べて、兎に角早い事もない遅い事もない、時間にぴしっといかなきゃならない。又、お初穂も前の晩から用意して、ちゃんとお届けせんならんと。些細な事だけれども、心使いと云うものが目が荒い、と私が昨日申しました。
そんな事ではいけん、他の事がどんなに立派に出来ても、もうちょっと心掛けを、いわゆる目を詰めてしなければ、小さい所から目が漏れる。
そういうような意味で云うならね、私共の上にも、どの位目の荒い事か分かりませんけれども、神様はそれを許すとか許さんぢゃないけれどもお気付け下さるね。
昨日、竹内先生の家内の実家である宮崎の高鍋のお母さんに、学院修行を終って教会で修行中のお父さんから電話が掛かって来た。 今日、御心眼に、佳奈子と云うのは正教先生の家内の名前ですけれども、佳奈子が合楽の右の御結界の前に寝ておる、そして横におかわを置いておると云うお知らせを頂いた、どういう事か分かりませんから合楽にすぐお届けをしてくれ、と云う電話があった。
私は、これはあの人達夫婦に直接云うて下さい、自分達が分かる事がありましょうから。と申しましたけれども、右の御結界の前に座っておった、御結界をお便所のように云われるけれども、おかわでもいけん事はない訳です、おかわを置いて寝とった、と。
私は此処の先生方、子持ちの先生方に申しますのは、子供がおるからと云うて、子供にかまけて信心の方を疎かになっちゃならん、云う事です。
此処は子持ちのお母さん達の先生は考えとかなきゃならんね。御用と云う所は、例え泣きよっても、細々云うておっても、それは放任してでも御用の方を専念しなきゃ出来ない。
子供にかまける事がいけない、と此処で修行する先生方に私の云い方は厳しいですけれども、これは各自各自の信心でもそうです。やっぱりね、心掛けひとつで出来る事を、構えを作っとらんから出けん、と云うような事ぢゃいけませんね。
だから、目の荒い事を、それは当然の事としてはなりません。そこはお詑もすりゃ、又、目の詰まった信心にもならせて頂いてですね、いよいよ一切を修行として受けるところに、私共の生涯プラスになる安心の傘が与えられるような、おかげを頂きたいね。
守々の力に従っておかげも違うが、信奉者一人一人の力に従って違う、その力と云うのはね、それを頂くと云う事はね、今、合楽で云われる御理念による生き方ね。それは様々に説かれるが、中でもね、一日、例え今日どういうような事があっても、それを修行で受けよ、と云う腹を作っての生き方が身に付いてしもたらね、いわゆる安心のおかげも頂かれるし、安心の徳も受ける、と云う事にもなりますね。
今日は教会、又は教師に対する御理解で守々の力と云う事ですけども、これは信奉者一人一人の力、と云う意味においての御理解でしたね。
「どうぞ」